黒崎播磨2024年度シーズンレポート①
2024年度の黒崎播磨陸上競技部は、マラソンの日本トップチームのポジションを確立した。細谷恭平が25年2月の大阪マラソンで2時間05分58秒の日本歴代7位をマーク。田村友佑もベルリン・マラソンで2時間7分台で走った。細谷と田村のレースを振り返ることで、黒崎播磨のマラソンがどうして強いのかを紹介する。その一方で、ニューイヤー駅伝は田村友佑の欠場もあり、14位と振るわなかった。しかし25年度は3位以内を目標に掲げる。主要区間の選手が故障などなくピークを合わせ、若手の中から成長する選手が現れれば、目標が現実味を帯びる。黒崎播磨の24年度シーズンを①、②に分けて振り返る。
毎回同じ練習を行う細谷が成長できる理由とは?
細谷恭平が魂の走りを見せた。
25年2月の大阪マラソンは、9月に東京で開催される世界陸上の選考会。代表有力候補たちがそろって出場し、ここで日本人トップを取れば代表入りは確実だった。
しかし32kmで先頭集団から後れ始めた。
「上りになったら急に(キツさが)来ました。本来なら仕掛けるはずの地点で、逆に離されてしまいました」と無念の表情。
その時点では日本人も5人が残っていた。代表入りは無理かと思われたが、そこから特徴である驚異的な粘りを発揮した。35kmでは先頭集団から50m差があったが、38km手前で追いついたのだ。24年の東京マラソン(日本人3位)も、途中で先頭集団から後れたが終盤で盛り返してきた。
「代表がかかっていましたから、少しでもチャンスがあるなら勝負したい。根性というか意地というか…いつもの粘りですが」
日本記録保持者の鈴木健吾(富士通)ら3人を抜き去ったが、近藤亮太(三菱重工)には最後で引き離された。2時間05分58秒で日本人2位(全体4位)。世界陸上代表入りはかなわなかったが、国際大会でも結果を出せる走りを大阪で見せた。
細谷はなぜ、ここまでの走りができるのか。黒崎播磨のマラソン練習は、基本的に毎回同じメニューで行う。細谷は25年シーズンで30歳になる。若くはないが、この1年間でハーフマラソンもマラソンも自己記録を更新した。
「タイムトライアルなど、数字で前年より速くなっているとわかることもありますが、それよりも気持ちの余裕を持てることの方が大きいと思います。若い頃は負荷の大きい練習をした後に反動が出ると、“やばい、休まないと”という思考に陥りがちでした。それが同じ練習を毎年重ねていると“こんなもんだろう”と考えられます。次の練習の設定タイムをこうすればいい、と落ち着いて対処できるようになっています」
反動が出たときの考え方、対処法は選手によって違う。澁谷明憲監督は「毎年同じことをやるのですが、選手の個性で余裕度が違ってきます」と説明する。黒崎播磨に大学のスター選手はいないが、多くの選手がマラソンで記録を伸ばす。程度の差こそあれ、余裕度を自分のスタイルに合わせて作る部分を、チーム全員が理解しているからだろう。
田村友佑がベルリンで見せた成長
田村友佑は24年9月のベルリン・マラソンで2時間07分38秒をマークした。アフリカ勢が多く出場するワールドマラソンメジャーズのため19位だったが、初マラソンだった24年3月東京マラソンの2時間09分21秒から、2分近くタイムを縮めた。
まだ練習パターンを確立できてはいないが、レース内容的には経験を生かす走りができた。
「東京は後半粘るための前半の走り、ができていませんでした。東京もベルリンも集団に付かないといけないのは同じ状況でしたが、ベルリンは後半どうなるかを想定できたのです。東京はギリギリまで集団に付いて走りましたが、ベルリンでは15kmで1つ後ろの集団に切り換えました」
それでもベルリンの中間点通過は1時間02分35秒で、1時間02分56秒だった東京より21秒速かった。ただ、田村がいた集団でそのまま走った池田耀平(Kao)は、2時間05分12秒の日本歴代2位で走った。
「もう一段上に行こうと思ったら池田さんのような走りをしないといけませんが、徐々にステップアップしていくのがウチのチームですから」
細谷と田村友佑に、24年2月の大阪マラソンで2時間06分54秒をマークした土井大輔を加え、黒崎播磨は2時間5分台、6分台、7分台の現役選手が1人ずつ在籍する(歴代リスト)。日本の実業団でも2、3チーム目、と言われる快挙を達成した。
TEXT by 寺田 辰朗