黒崎播磨のアスリートたち 第2回《中島阿廉》

入社3年目の中島阿廉は黒崎播磨で、3000m障害で日本代表を狙う選手へと成長した。昨年(21年)のU20日本選手権で3位に入り、そのときの8分42秒74はシーズン日本リスト15位、U20日本歴代7位というレベルの高い記録だった。だが中島は中学・高校時代、全国トップクラスといえる存在ではなかった。どんな努力をして成長したのだろう。

●3000m障害の躍進を支えた中島の積極姿勢

昨年のU20日本選手権は最後の水濠で2人に先行されて3位だったが、それまでの自己記録を17秒も更新した。派遣中止になったが、7月にケニア・ナイロビで開催されるU20世界選手権代表にも選ばれた。
自己記録大幅更新の要因を「走力が上がっていたことと、障害練習をしっかり行ったから」だと自己分析。「澁谷(明憲)監督の指導力と、障害練習をサポートしてくれたスタッフのおかげです」
中島は早生まれのため、入社2年目までU20資格があった。黒崎播磨入社後の2シーズンで躍進した選手だが、競技に取り組むスタンスは高校時代に培われていた。佐賀県の強豪・鳥栖工高入学時には「学年で8~9番目」(中島)の選手だったが、全国高校駅伝のメンバーに2、3年時に選ばれた。卒業時にはチーム3番目の選手に成長していた。
「毎回の練習を全力でやっていました。ラスト1本がフリーのメニューは、絶対に負けないと思って走っていましたし、休日も自主練習で走っていたんです。典型的な負けず嫌いの選手でしたが、それは今も同じです。強い選手、自分より力が上の選手はたくさんいます。でも、何か1つでも勝てるところを見つけて挑戦していきます」
この積極的な姿勢があったから、昨年の飛躍があった。

●今季は不調。壁をどう超えるか

だが今シーズンの中島は壁に当たっている。2月の日本選手権クロスカントリーは48位で、同期入社の田村友伸に1分16秒差をつけられた。3000m障害で4月の織田記念、5月のゴールデングランプリと、昨年の記録が評価されて全国規模の大会に出場できたが、織田記念は9分26秒50の16位、ゴールデングランプリは9分06秒39の14位。自己記録より30秒以上遅いタイムでしか走ることができなかった。
織田記念のレース後に「調子は良いと思っていたんですが、レースになったらキレがありませんでした。監督と相談して対応を考えます」と首をひねっていた。
澁谷監督は「自己記録を出したときと、同じ調整しかできないことに問題があるかもしれない」と言う。同じメニューを同じタイムで練習していても、体の奥に疲労が蓄積していることがある。身体の状態は日々変化があるが、そこに気づかず同じ練習を行ってしまうとそのパターンに陥ることになる。
そういうときは試合に向けての調整メニューで、力の入れ方を変える必要がある。そこがまだ中島はできないのかもしれない。中島自身が体調をしっかり把握し、澁谷監督と相談しながら対策を立てていく。誰かが教えてくれることではなく、選手が自分の状態を正確に知ることが壁を超えるための第一歩だ。
もう1つ、体力や総合的な力をアップさせることで、同じ練習を行っても疲れをためなくする方法もある。
「練習の継続が最近できるようになってきました。去年は他の選手より距離や時間を抑えて練習しましたが、今年はしっかり走り込みを行って、走力を向上させたいと思っています」
そうなれば自己新の時と同じ調整メニューで調子を上げられるかもしれない。自分の体調が現在こういう状態だから、この調整を行えばいいと判断ができるようになれば、中島は日本代表に近づいていくだろう。 TEXT by 寺田 辰朗

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